2013年を振り返る

今年は、夏の台東展の出品と、来年初の書海社展の作品作りぐらいしか、活動らしい活動は無かった。
年初にはもっと書道展を見に行こうと思っていたのだけれど、やはりなかなか時間が取れない。
いろんな書を見て、自分の立ち位置のようなものは確認すべきだったと思う。
一方で、昨年来、臨書している傅山は、ようやく終わりが見えてきた。
来年は別の先人の臨書に取り組むことになるだろう。
長峰の線を活かすと考えると、明清調に偏ってしまうのだが、改めて唐宋の草書に戻るのも、一興だろうか。
それとも、王鐸、倪元ろ(王偏に路)といった辺りまで、手を伸ばすべきだろうか。
ここ数年来、文徴明、張瑞図と明代の草書を臨書し続けてきて、自分の手癖がいささか鼻についてきた感もある。
線の運び、結体の優美さを自分のものにしたかったのだが、どうしても自分で書いた時のあざとさのようなものが、抜けていないような気がする。
それは自分の中で消化し切れていないからなのだろうけれど、今一歩踏み出すには一度離れるべきじゃないかとも思う。
書き続けることに何か目的があるわけではないけれど、やはり自分の中の最高傑作を探してはいる。
それは、単なる先人の模倣ではないのだけれど、模倣を突き抜けたところの何かに辿り着くまで書くべきだろうか。
そして久しぶりの書海者展出品に向けて、二八の三枚組みを書いてみて、やはり書に向き合う時間の特別さを再認識した。
展覧会で誰かの作品を見ることも必要であり、書に向き合っていることなのだが、白い紙に向かい墨を含ませた筆を下ろす瞬間、そして紙の上を滑らせていく時間は何ものにも替えがたい。
撰文し、草稿を練り、墨を磨り、紙を整え、といった準備の全てが、その書く瞬間に収斂されていく。
出来上がった書作品そのものは、ただの形骸に過ぎないのではないか。
そんな風に言うと、観て頂いた方々に失礼なのかもしれない。
だが、展覧会場で自作を見たときの失望めいたものは、その書に向き合っている時間の数パーセントすら伝わって来ない気がする。
そう思うと、さらに腕を磨き、観て頂いた方へ、それが伝わる作品を作らなければいけないのだろう。

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