書について(序)

書について考えてみようと思い立つ。
今まで考えていなかった訳ではないのだけれど、思考の出発点が何であるのかを自覚していなかったのだと思った。
例えて言うなら、手がかりもなく、垂直な壁を登るようなものだったのかもしれない。
或いはコンパスを持たずに、大草原を歩いてゆくようなものかもしれない。

まず手始めに、視覚芸術としての書、という捉え方は出来るだろうと考えた。
書は絵画ではなく、映画でもない、だが、視覚で鑑賞するものとして存在する。
視覚で捉え、意味を解読することが、鑑賞の一つではある。
しかしそこには、書かれた言葉と書かれた形象と書いた作者とが、渾然と存在している。
何が書かれているのか、どう書かれているのか、誰が書いているのか。
その渾然とした存在が書なのだと開き直ってみたところで何も意味はしない。
箇条書きにしてみると、このようになる。

  • 書かれている言葉とその意味
  • その言葉の作者(時に書き手その人ということもあるだろう)
  • 書かれた字の形象(figure)
  • 形象の文脈
  • 作品から推測される書き手の系譜

これらを言及することは、作品を解説することであり、作品の意味を掘り起こし、さらには意味を付加する行為かもしれない。

もう一つは、経験としての書という視点が考えられる。
書くという経験の残滓が書作品だとすると、それを見るという経験はいったい何であるのか。
墨が筆を媒介して紙との接点を記録する、その瞬間瞬間の連続が作品であり、それをコントロールしている書家という存在は、作品が書かれているその瞬間にしか存在しない、という考え方もあるだろう。
そうすると、書作品を見るという行為は、その作品が書かれた瞬間の書き手との対峙が可能でなければ意味がないということになる。
或いは、書家との対話不可能性を基点として、作品と対峙することにより空白を埋めていかねばならないということだ。
見るという行為から書くという行為そのものへと遡ること、それはもう一つの考え方であるように思う。

或いは、全体と部分の関係において、書を考えるというのはどうだろうか。
ある作品の中には、様々なレベルの関係が折り込まれている。
これも箇条書きにしてみる。

  • 墨色
  • 筆の走る速さ
  • 筆の回る角度
  • 余白
  • 文字のバランス
  • 文字の大小
  • 文章
  • 行分け

これらは層を成し、互いに関連し、時には各層のレベルを超えて繋がり、作品という有機体になっていると考えられる。
その有機体を産み落とす存在が書家であり、そこには書家の意識/無意識が折り込まれているに違いない。

考えれば考えるほどに、考える領域は広がってゆく。
何らかの手がかりを見つけて、考えてみようと思った。

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