筆というもの

筆というものは、何と不思議なものだろうかと、つくづく思う。
日常生活において、およそ文字を書き付けるのならば、ボールペンやシャープペンシル、鉛筆にマーカーなどで事足りる。
安い紙にガリガリと用事を書き付けるだけで良いからだ。
手紙を書くなら、万年筆を使いたい。
紙を選び、言葉を選んで書くなら、万年筆の柔らかな筆致がふさわしい。
さて、筆はどうなのか。
未だに筆で手紙を書くほど、いや書けるほどの技量は持っていない。
だが、和様であろうと、唐様であろうと書の古典の多くは、手紙だったりする。
むしろ長条幅の書作品という形式は、明朝以降のものだろう。
もともと筆記具なのだから、手紙を書くこと自体は、筆の用途には違いない。
だが、思うように書けるだろうか、と考えてしまっている時点で、筆で書くということに躊躇してしまっている。
せめて年賀状ぐらいはと、毎年、筆で書いてみるのだが、それでも上手くなっている気がしない。
筆で書くことが上手にならなければいけない、とどこかで考えてしまっている。
それは、上手でなくても良い、という考えを否定しているわけではない。
また、上手でなくても味があれば良い、という考えには異を唱えたい。
書くからには上手く書きたいし、ましてや相手に届けるものは失礼の無いようにしようと思っている。
だが、筆はそんなことを素直に聞いてくれる筆記具ではない。
太すぎたり、細すぎたり、纏まらずにばらけてしまったり、それだけならまだしも線にとらわれすぎるあまり、字形が崩れてしまうと目も当てられない。
およそ、自分の意思とは反する、別の生き物の様にすら、思えてくる。
そしてそれは、細字だけではない。
作品を書いている時だって、思ったように筆が進んでくれるのは難しい。
それを何とかしようと、まさに小手先で扱おうとして、上手くいく例が無い。
だから、作品を書くときは腕から、時には身体を使って、筆を動かすことになる。
そうした方が、筆は言うことを聞くのだ。
先生に、肘を上げなさい、と注意されるのはこのことだ。
翻って考えると、筆先というのは、ただの手の延長ではなく、体の動きの全てが集約されているとも言える。
むしろ、そうなった瞬間は、自在に筆先が動いているのだろう。
筆と手と腕と身体が、ひとつの纏まった動きとなって、筆先から作品が生まれる。
そうした墨の線の軌跡は、ただの文字ではなく、身体が筆という接点を通して、紙という世界とのせめぎあった痕跡なのだと言っても良いだろう。
そのせめぎあいは、筆の大きさとは全くの無関係ではないが、必ずしも大きさに規定されるものではない。
不意に打たれた一点、鋭角に平面へ進入し、速度を上げながら伸び行く線、垂直と水平、或いは交差と離反、時には身悶えるように、捩れながら喰らいついては、不意に素っ気なく中断されて、離れた場所に何事も無かったように着地する、筆の動きを追いかけて、作品を眺めていくと、そんなものが見えるかもしれない。

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