やり残し

先週の事となるが、夏の台東展の作品を提出した。
どうも今回は上手くいったように思えない。
どこかでやり残した感じがしている。
手を抜いているわけではないけれど、もうちょっと上手く書けるんじゃないか、もっと良くなる書き方があるんじゃないか、そんな思いが残っている。
それは紙なのか、墨なのか、筆なのか、といった物質的なことも、線の引き方、線の太さ細さ、起筆の強弱、配置、といった技巧的なことも、それらをひっくるめた作品というものに対してなのだけれど、それが何かを指摘できるほどに、書を知っているとは思えない。
書を知っているとは何だろうか。
例えば、この作品は良いとか、この作品は好きだとか、そういった感覚的なことではなく、書を構造として語れるということかもしれないと考えている。
だが厄介なことに、その理解のしかたでは、書は上手くならないことも、なんとなく分かってしまう。
良い作品の良さを集めたところで、それは良い書にはならないだろうと思う。
部分と全体は多層的であり、部分の理解は全体の理解に必ずしもつながらない。
木を見て森を見ず、木を語りつくしても森を語ったことにはならない。
群盲撫象、盲人たちの言葉を重ねても、生き生きとした象の姿にはならない。
だが一方で、木を見ることなく森は語れず、象を撫でずして象については語れないのもまた、事実ではないだろうか。
さらに話は逸れて行く。
しかし、象を撫でた盲人は、それが象だと知ったらどうなるのだろう。
どうもならないんじゃないかという考えもあるのではないか。
きっと、自分の触った象だけが真実の象であり、誰かに知らされた象は、いつになろうと想像上の象のままなのではないだろうか。
彼らが語っているのは、撫でた象の部分なのだとしたり顔で言うのは、象を撫でたことも無い目明きの知ったかぶりなんじゃないか。
象を触ったことがあるという経験と、象を見たことがあるという経験の間には、相互に変換できない感覚の淵があって、それが象なのだという言葉がそこに挿入されたとしても、盲人の触った感覚と、目明きの眼で見た記憶を繋ぐことはできないだろう。
だとしたら、やっぱり触るべきではないか、と思う自分がいる。
たとえやり残した感じがしたとしても、書かなければ作品はできず、作品が作れなければ良い作品なんか生まれはしない。
上手く話の頭に戻ったので、おしまいとしよう。

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