汚れ?

紙と墨で作られたものが作品だというなら、作品とそうでないものの境目はどこにあるのかと考えると、そこに明確なものなど無く、全ては汚れであると考えられるのだけれど、逆もまた真であって全ては作品なのだと考える事だって出来るだろう。
しかしそれは考えることの放棄になってしまってはいないかと自省し、例えば汚れから作品に至る無段階のgradationを想定してみることとする。
その場合、どのようなパラメーターが必要なのだろうか、つまり、作品にはより多く含まれてはいるが、汚れにはほとんど含まれていないような要素を想定してみるのだが、それは作品にあって汚れには無いものを考える、まるで謎掛けなのではないかと気付き、思考の枠組みがどうしても高級な方へ向かわない。
ならばいっそ謎掛けで考えてもいいのだけれど、それはそれで答えがすぐには出ないものだから、やはり作品と汚れの境目を考えるべきなのかもしれないと、話は堂々巡りの様相を呈してしまい、結局何の話だったのかと興味が徐々に逸れていく。
作品だって汚れだってどっちだって良いじゃないかという捨て鉢な考えも湧いてくるのだけれど、立ったら書いてる意味が無いじゃないかと、そこは居住いを正して、もう一度考えてみるに、そこには作者の意図が関係するのではないかと思いつく。
意図あるものが作品で、意図しないものが汚れだと仮定してみると、いったいその割合の限界が気になり、つまり、50%しか意図しない作品は作品と呼んでいいものだろうか、10%でも意図があればそれは汚れなのだろうか、ひいては、100%意図した通りに出来上がる作品なんてあり得ないんじゃないかと、意図はその境界線を決めるための指標としては不十分なのではないだろうかという疑問が拭えない。
汚れだけに拭えないだなんて洒落ている場合でもないのだけれど、それを汚れと言ってしまうことに無理があったのではなかろうか、というのが結論になるようだ。

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