TOKYO書2015展+彩られた紙と現代の書

東京都美術館がキュレーションを行い、各団体から数名の作家が、幅10mの壁面を自由に使って作品を出展する、という展覧会だが、今年で3回目だろうか。
年初の恒例として、今年も観覧してきた。
私の所属する書海社も参加しているが、古典派から前衛まで、漢字、仮名、刻字、と良い意味でショーケース的な展覧会である。
ここ数年、書道団体の不祥事が世間に取り上げられることもあったが、東京都美術館がこうして続けてくれることは有難いことだ。
一つ一つの作品について何か批評めいたことを言う立場には無いので、ここでは書かない。
ただ、出品された作品を見れば、どの団体も力の入れようというのが判るというものだ。

作品を見ながら、考えたことをいくつか。

一つは墨の色だ。
濃墨もあれば、淡墨もあり、白から黒までの諧調は無数にある。
そこからどう選ぶかも、作品を作る上での要素なのだと。
同じようなタッチ(筆触という言い方もあるようだが)でも、墨の濃さでまた印象は変わる。
また、線と滲みというのも、墨色の要素だろう。
滲まない紙でかっちりとした輪郭を出すのも、滲む紙で地に消え入りそうな、或いはグラデーションを伴って地から浮き出てくるような線を、あるいは面を書くのも表現の一つだろう。
墨という素材の使われ方は、無限にあるだろう。

もう一つは作品との距離だ。
作品に書かれた文字を読もうとするなら、ある程度の距離を持たなければならない。
作品から離れると、文字の表情が見え、各行の、そして紙面の表情が見えてくる。
それは、作者の感情の表現とはまた異なるし、文意とも異なる。
他の言葉で言い換えられるほど簡単なものではないが、文字には文字の表情が存在すると思う。
その文字の表情の起伏が、書作品の表現にリズムとして現れているのではないかと考える。
だが、作品から離れてしまうと、墨の色はある程度画一になる。
それはまるで、街は様々な色をしているけれど、航空写真でみた日本は概して茶色と緑色であり、宇宙から見れば青く見えるのにも似ている。
文字性を捉えることを放棄して、近づいて見た場合、そこには紙と墨のせめぎ合いとしての線が見えてくる。
線の輪郭は滲み、或いは掠れて、紙の上に痕跡として残っている。
文字である以前に、素材としての紙と墨とその接点を生み出すための筆という用具の動きが、そしてそれを動かしている作者の腕の動きが見えてくる。

そして読める読めないということ。
草書、隷書、篆書で書かれた文字、滲み余白がつぶれてしまった文字、大きすぎて視界に入りきらない文字。
結局のところ、書作品が読めるかどうかは、作品の価値とは関係ないのではないだろうか。
書作品を作る側も、鑑賞する側も、書を読むということは、作品の前提にしていない、ということか。


  • 会期 : 2015年1月4日(日)~1月16日(金)
  • 会場 : 公募展示室 ロビー階 第1・第2


併せて、収蔵作品による「彩られた紙と現代の書」展も観覧した。
別会場なのでエスカレーターで地下3階に降りる。
タイトルからして、かな作品が中心の展覧会である。
その中でも、村上三島氏のオレンジ色の料紙、廣津雲仙の絹が良かった。

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