書くということ

この記事はスマホで書いている。
筆記用具を持っているわけでもないのに、書いていると言う。
スマホの日本語入力ソフトには予測変換機能があって、予測変換という言葉だって、よそく、と入れただけで先回りされる。
アルファベットを打っているのに、かな文字になって、漢字変換を予測される。
ふと、これはとても奇妙な事だと思う。
入力していない文字が現れ、考えている事を先回りされている。
書くという行為とはかけ離れたオペレーションをして、ろくに文字も入力していないのに、文章が出来上がっていくこの行為を書くと言うのはとても奇妙なことではないだろうか。
だが、書く、という言葉以外に相応しい言葉があるだろうか。
無いのだとすると、書くことの本質がここにはあるのだろう。
言葉を選んで、文章を組み立て、それを文字にすること、それが書くということだろうか。
実は何を使って書くのか、ということは書くということの本質ではないのかもしれない。
この行の前からは、パソコンで文字入力をしている。
キーボードを押すという行為と、スマホの画面をなでるという行為は、文字を入力するという点においては一致し、筆記用具を使って何かに文字を書くという行為とは一線を画していると思う。
だが、スマホでブログを書き、パソコンでブログを書き、ボールペンでメモを書く、全て書くということに他ならない。

少し戻ろう。
言葉を選び、文章を組み立て、それを文字にすることが書くことの本質ではないかといったん考えた。
では、書とは書くという行為のヴァリエーションになるのだろうか。
言葉を選ぶとか文章を組み立てるといったことではない。
だとすると、書くことの本質を満たしていないのだが、これはやはり書くことに他ならないと考えている。
わざと韜晦した言い回しでいうなら、何かを書くという行為というより、書くという行為そのもの、書くことの自己言及的な行為が書なのではないだろうか。

別の話をしよう。
例えば、書作品を見に行った場合、何を気にしているだろうか。
書にあまり興味の無い友人と観に行った場合、「これは何が書いてあるんだい?」と聞かれることが多い。
つまり、書というより、文章であり、意味であり、そこに込められているものを見ようとしている。
書作品を、読めないけれど何か読めるものが書いてあるもの、として見ている。
あるいは、文字のフォルムがそのモノを指し示すようなデザイン的な文字というのがある。
一種の象形文字のヴァリエーションといってもいいのかもしれないが、文字は具体的な何かを表す記号であり、記号のフォルムを意味に近づけることが作品の意味になると考えているのだろうか。
そうすると、具象以外、抽象的、概念的な文字は、作品にし辛いのではないかと考えるが、文字のフォルムに視覚的な効果を加えることで、より具象に近い行為を連想させるような表現というのを見かける。
例えば、風の実体を文字そのもので表すことは出来ないが、風に乗って流されているような配置をしたり、フォルムを崩したりすることで、風の動きを表現しているようなものだ。
どちらの例も、文字を記号として何かを意味するものとして捉えていることは変わらない。
書作品を書く場合、悲しい詩は悲しそうに、勇壮な詩は力強く、なんて書いているだろうかというと、まあ自分の例で言うならそんなことは無い。
そういう作品を作る人もいるのかもしれないが、そんな書き方は出来ない。

むしろ文字のフォルムそのものに気を使っている。
書作品を書いているときは、文字が最も美しく見えるように、文字が連なっていく様子にリズムや流れが見えるように、そんなことを考えている。
文章でも言葉でもなく、文字そのものの美を磨きだすことが、書を書くことなのだと思う。
だから、何かを文字に乗せて書くのが書なのではなく、書とは文字の美を見出すことなのだろう。
なんだか妙にありきたりな結論に届いてしまったようだ。

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