書くということ(続き)

前の記事から、もうひとつの結論へ。

書くこととは、言葉を選び、文章を組み立て、それを文字にすることだとすると、ここ最近の進化のスピードは凄まじいものがあるだろう。
数千年前、石で粘土板やパピルスに刻み付けていたものが、紙、筆、インクの発明によって急速に進化し、やがて15世紀の印刷技術に発達によりさらに進化した。
だがそれは、文字を書きつけるという行為そのものの進化であり、言葉を選び文章を組み立てるのは、個人の脳内の出来事、あるいは脳と手の間の連携に守られていたのだと言えよう。
だが、ここ数十年のIT技術の進化により、その牙城も崩されつつあると言っても良いのかもしれない。
MS-IME、ATOKといった日本語入力ソフトは、操作する人の過去事例から、変換候補の語彙を更新している。
その結果、言葉全てを入力する前に、先回りして変換候補が登場する。
これはあるいは、テクノロジーによる思考の支配かもしれない。
文章を組み立てるまでに、言葉ひとつ一つクリアに理解できているといえるのだろうか。
例えば、一通のメールを予測変換を使わずに書くなんていうことがあるだろうか。
PCやスマホで文章を書くということは、日本語入力ソフトの予測変換やかな漢字変換機能を多用することで、手で書くよりも早いスピードを実現している反面で、文章や言葉や漢字を吟味する時間が減っているように思うのだ。
よく使われる文字、よく使われる単語、よく使われるフレーズで文章が出来上がっていく。
文章を最後まで考えるよりも先に、文章が出来上がってはいないだろうか。
もっと技術が発達すると、文字を入力しようとした時点で、文章が出来上がってしまうだろう。
考えるよりも早く、考えようとしていたことが先回りされてしまう。
そうして、まさにそう言おうと思っていた、という文章が出来上がる。
それはいかにも自分が書いたような特徴を備えていて、しかもとても洗練されている。
だが本当にそれは書きたかった文章なのだろうか。
出来上がったその文章は、本当にそう書こうと思っていたものだ、ということを証明する術は無いのではないか。
どこまでも本当らしく、自分で書いた文章らしいのだけれど、どこか自分のものではない要素が混入している。
白い紙に向かって鉛筆で書きつけた文章とどこかが違うような気がしないだろうか。
だが白い紙に向かって鉛筆を滑らせていくことと、PCのキーボードを叩いていくことに、本質的な違いは無いとも思う。
どちらも脳が手を使って言葉を紡ぎ出していくことに変わりは無い。
むしろどのようなデバイス、それは手でも、口でも、身体でも、そして未知の方法でも書くことは可能なのだ。
それでも、白い紙に向かって鉛筆を滑らせていくことと、PCのキーボードを叩いていくことに違いを感じているのは、未だ慣れていないというだけなのかもしれない。
鉛筆で書いては消し、また書く、という行為は、キーボ-ドで入力し変換しては、Back Spaceで戻るの繰り返しに取って代わり、脳で言葉を吟味する時間は、変換後の選択とGoogleで用例を検索する時間に取って代わっているのだろう。
それは良いとか悪いとかいうことではなく、そう変化しているという話なのだと思う。
恐らくは書くことが変化する度に繰り返されてきたのだろう。

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