作意と率意、意識と無意識

中国書道辞典によると、董其昌の造語らしい。
あれこれと構想を練り、下書きを重ねて作品を作るのことを作意(さくい)という。
その努力や工夫が紙面からにじみ出て、鼻につく場合、「作意の書」と言うらしい。
そうではなく、意のままに筆を取り、一気呵成に書き上げることを率意(そつい)という。
王義之の「蘭亭叙」は何度書き直しても最初に書いたものに及ばなかった、というエピソードもあるらしい。
作意と率意。
どうにも、皮肉めいた言葉だと思う。
私の作品なんぞは「作意の書」に他ならないだろう。
話をいったん変えよう。
シュルレアリスム以降の現代美術には、無意識という軸がある。
だが、この無意識というものは、なかなか厄介である。
シュルレアリスムにおける自動書記の代表作「溶ける魚」は、無意識に語らせようとしている。
一見すると脈絡の無い単語の連なりは、意識下での文脈に従って語られ、そこに詩を見出すための編集を経ている。
言葉に対する意識下の動きに着目しているのはシュルレアリスムの成果ではあるが、詩として成立させるためには編集という意識的な行為を経なければいけないのである。
絵画におけるシュルレアリスムでは、なおさらそれまでの具象絵画の文脈を意識せざるを得なかったように思う。
マグリット、ダリ、エルンスト、デルヴォーといったシュルレアリスムの画家たちの描く絵は具象的であり、その表現の意図的なずらしによる差異が、意識下の表出を表している。
無意識を掬い取るのではなく、無意識がそこにあるかのように描いているのであり、それは意識的な行為である。
もちろん、抽象絵画のミロ、タンギーといった画家も存在するが、詩におけるシュルレアリスムと同様に、それが絵画的であるかどうかの編集を経ている。
一方で、デュシャンはゲームや偶然を作品の中に取り込んでしまう。
意識的であることを、意識的に放棄してしまうことで、ここから現代美術は大きく転回しているように思う。
シュルレアリスム以降の現代美術について、全て語れるほどには薀蓄は持っていない。
しかし、赤瀬川原平の「超芸術トマソン」によって、作者すら放棄されてしまう。
つまり、そこに作者の意図があろうと無かろうと、むしろ意図せずに出来上がったものを観測する行為が芸術を成立させているというわけである。
主題も無い、作者もいない、だが作品が残され、風化していくのを観測する。
話を戻す。
結局のところ、書として書いたものはどこまで行っても、それは作意に他ならないのではないだろうか。
それが上手とか下手とか、美しいとか美しくないとか、そこに書こうという意思がある限り、作意だと言っていいのではないだろうか。
この場合、率意とは書くことを合目的化しないということだろうか。
つまり、朝起きて一日の最初の一歩を歩き出すように書を書く、ただ息をするように書を書く、そうして出来上がったものを言うのではないだろうか。
それはいかなる書なのか、まだ見たことが無いし、想像もできない。

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