TOKYO書2016+感じる漢字

年初の恒例として、今年もTOKYO書展を観覧してきた。
今年で4回目である。
私の所属する書海社も参加しているが、古典派から前衛まで、漢字、仮名、刻字、篆刻と良い意味でショーケース的な展覧会である。
一つ一つの作品について何か批評めいたことを言う立場には無いので、ここでは書かない。
ただ、出品された作品を見れば、どの団体も力の入れようというのが判るというものだ。

作品を見ながら、考えたことをいくつか。

一つは意味である。
文字が書いてあるので、どうしても読んでしまう。
読んでしまうと、解ったような気になってしまう。
だが、それは文章が解っただけで、書として解ったのでは無いかも知れない。
あるいは、字が読めただけで、それで書が解ったような気になってしまっていないか、と思った。
書作品とは、なんと厄介な存在であることか。
読めるものは意味があり、読めないものには意味が無いかのように錯覚してしまう。
読めるか読めないかは問題ではなく、書としての意味は線であり形なのではないか、と思った。
線の美しさ、形のバランス、他にもあるだろうが、そういった要素が書作品の美の要素であり、意味なのではないだろうか。

もう一つは抽象である。
これは意味について考えたことと矛盾してくる。
言葉とは具象としての事物に対する抽象であり、文字は言葉を伝えるための形に過ぎないと考える。
だから、文字を書く書とは、最初から抽象表現ということになる。
だとしたら、文字を書かない書とは、抽象ですらない。
あくまで文字であることの限りにおいて、書は書であるということになるのかもしれない。
書が書であるためには、文字である必要があり、文字であることとは、言葉を伝えるための形であり、読めることになるのではないか。

ともあれ、書とは何か、ということを考えさせてくれる、良い展覧会であるだろう。


  • 会期 : 2016年1月4日(月)~1月16日(土)
  • 会場 : 公募展示室 ロビー階 第1・第2


併せて、収蔵作品による「感じる漢字」展も観覧した。
別会場なのでエスカレーターで地下3階に降りる。
豊道春海、松本芳翠、村上三島、山崎節堂、青山杉雨、西川寧といった先人の肉筆が見れるので、とても良い。

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