2017年を振り返る

溜まった反古を切って集めても、この程度だったかと、ちょっと意外に思った。
よくよく考えると、夏に1回片付けたような気がする。
反古の中に春や夏の詩歌が無かった。

今年は、夏の台東書道展と、秋の書海社同人選抜展にしか、出品していない。
臨書の課題も、相変わらず懐素の「自叙帖」を続けている。
自分の書歴で言うなら、あまり変化の無い1年だった。

それにしても、やはり文字を「書く」という行為が減っている。
こうしてブログを「書く」という事はあっても、紙に向かって文字を「書く」ということが減っている。
うちの子供が宿題をやっているのを見ると、相変わらずノートに鉛筆で書いている。
自分はと言うと、会議のメモぐらいだろうか。
走り書きであって、書いているという感じがしない。
「書く」という行為、と言った場合、その背景にある何かを考えたり、思い起こす時間のことも指している。
何かを考えたり思い起こす時間に、PCやスマートフォンを使って文字にしている。

考えたこと、思ったこと、言いたいこと、伝えたいこと、それは最初から言葉として存在するのではなくて、言葉にしながら固まっていくのだと思うけれど、その過程に筆記用具を使う機会が減っている、というのが正しいのかもしれない。
けれども、書を「書く」という行為はそれとは違っている。
書の古典作品はまた違うだろう。
かつては筆記用具としての筆墨硯紙であり、言葉を紡ぐ過程のツールとして存在していたに違いない。(文章の草稿が書の古典として残っている)
いつかどこかで、書が芸として、書が作品として残るようになった時には、言葉を紡ぐための行為から離れて行ったように想像する。
だから、PCやスマートフォンで言葉を紡ぐ行為は、必然的な流れなのだろう。
言葉を紡ぎだして、誰かに届ける、という点で見ると、筆で手紙を書いていた頃から比べれば、想像もつかないぐらいに早く広い。

言葉を紡ぐために書いていた人たちと、作品として書く人たちでは、やはり書かれる文字は異なるに違いない。
だが同じように、使うツールによって紡ぎだされる言葉も違うだろう。
誤解が無いように自戒を籠めて補足すると、これはよくある「昔は良かった」という話ではなくて、変化し続ける中に、変わらないものを探し出す、という話である。
書とは何か、という話の答えは、今年もまだ見つからなかったけれど、言葉と文字との関係に何か手掛かりがあるかもしれない。

今年も読んでいただいた皆さんに感謝します。








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