文字の顔

字は人なり、とよく言われている。
その人の人となりが、字に現れるという。
古代から、皇室、貴族、僧侶、武将、大名、政治家の字がありがたがられる。
社会的に成功した人の字は、字としても素晴らしい、ということのようだ。
と言って、これからそのことを、書こうとしているのではない。

手書きの字には、何かしら表情のようなものがある。
表情というと、感情に結びついてしまうので、ちょっとニュアンスが違う。
その人の顔といった方が、良いかもしれない。
だが、顔というと、どうも人格を代表しているようで、これもまたニュアンスが違う。
その人ならではのモノでありながら、その人となりの別の一面を表しているようなもの、といった感じなのだ。
だからと言って、裏の顔とか、隠された無意識というものでもない。
顔の表情のようにコロコロと変わったりはしないが、その人そのものである顔がある。

学生の頃は、先生や教授の板書と、試験前に流通するノートのコピーで、色んな顔の文字に出会った。
巧いとか下手とかではなく、色んな顔がある。
顔だから、美人な字、剽軽な字、重厚な字、軽薄な字、色んな字があるが、必ずしも本人の人当たりとは一致しないところが面白い。
最近ではめっきり減ってしまったが、年賀状でも色んな顔の字が見れた。
新年の挨拶が、活字の年賀状や、メール、SNSでのチャットに代わってしまい、些か寂しい思いがする。

書の古典の法帖の中には、尺牘(せきとく)というのがある。
これは、手紙の断片なのだが、普段から筆で書いていた人の字は、顔立ちもさることながら表情や息遣いまで感じられるような気がする。
出典元を確かめるのが面倒なので記憶で書いてしまうが、たぶん夏目漱石の随筆で、筆ではなく万年筆で文字を書くことを嘆く話があった。(内田百閒かもしれない)
いまや万年筆どころか鉛筆も使わなくなっている。
手書きの機会が減って、文字の顔はつまらなくなってきてはいないだろうか。

さて、自分の字はどんな顔をしているだろうか。
自分の顔は好きではないが、長年付き合ってくると、まあこれでも良いかと思っている。
長年、習字を続けているが、自分の字はどうにも気に入らない。
歳を重ねた分ぐらいは、良い顔の字に成っていると良いのだが。

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