忘れる

色んな事を忘れている。
自分自身でも呆れるぐらい忘れている事が多い。
忘れるとまずいものはメモに書いたりもするが、書いたことを忘れている。
冗談か漫画のようだが、それが日常である。
小説で言えば小川洋子の「博士の愛した数式」の主人公の80分しか記憶の無い博士、漫画で言うと黒田硫黄の「セクシーボイスアンドロボ」に登場する3日間しか記憶の無い殺し屋・三日坊主といったキャラクターを思い起こすが、実際の生活の中では物語のような事は起きはしない。
自己啓発本などを読むと、書いて覚える、書かずに覚えるの両派があって、結局、決め手は無いのだろうと思っている。
自分がそんなだから、他人が忘れていることに対して、あまり気にも留めない。
気に留めないので、君の部下は忘れることは直らない、という指摘が上司から来たりもする。
だが注意されて直るものなら、大人になるまでにある程度、直っているのではないかと思っている。
人間は忘れるから生きていけるのだ、という話を何かで読んだ事がある。
確かに今までに起きた良い事と悪い事の比率を考えたら、どうなんだろうかと思うところはある。
しかし一方で、学習する生物として、直らないということは適者生存の法則から零れ落ちてしまっているのではないか、という懸念もある。
忘れてしまうことを止める事はできないし、忘れる対象を選別することもできないのだから、忘れるという現象は不可避なものであり、そこに言及するのは無駄に他ならないのではないかと考えている。
忘れるという現象が不可避だとしたら、そこに理由を求めることもまた倒錯に他ならない。
いかなる理由があろうとも、いやむしろ如何なる理由も必要無く、忘れるという現象は発生するというのが観察結果なのである。
それをあたかも忘れるという行為が存在して、そこに意思の働きがあるかのように語るということは、あらゆるものに因果関係があって意味があって欲しいという欲望を告白してしまっている。
忘れるという現象に抗ってみるということは、自らの欲望の告白、もしくは事実への誤認なのではないかと思って、ただ忘れるがままに任せてみる。
すると忘れている自分以上に忘れている周りの他人が見えてくる。
つまり、忘れていることを気にしているのは、ごく少数に過ぎない、もしくは大半の場面において忘れることは大した問題ではないということが見えてくる。
これからも大いに忘れることとしたい。 
 

 Photo by Irina on Unsplash

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