くだらないということ

くだならいことが好きなのだけど、本当にくだらないことは、取り上げる気もしない。
では、好きなくだらないことと、好きではないくだらないことの違いは何か、ということを考え出すと、好きではなくなってしまうような気がしている。
好きなものを並べてそれで済むかというと、絶えず入れ替わるものだから、あまり言い表せていないような気もするし、それにどこかスノビッシュな鼻につく感じがしてしまう。
その時は好きだと思ったくだらないことは、次の瞬間には嫌いになっているかもしれない。
だから、気が向いたときに、そっとつぶやいている。
何故くだらないことが好きなのかを考えてみようと思うが、この場合、何故くだらなくないことが好きになれないのか、という問いに置き換えて考えてみる。
くだらなくないことは、真面目であり、きちんとしていて、正しさを求められているものではないだろうか。
くだらないこととは、不真面目であり、どこかに矛盾や辻褄の合わないことがあって、必ずしも正しいとは限らない、ということが言えそうだ。
くだらないということは、何かの否定形で語られるし、くだらなくないことという否定形は、別の属性を纏っている。
くだらなくないこととは、真面目できちんとしていて正しいことと言い換えてみると、古代ギリシアの真善美の価値観につながっている。
では、くだらなくないこととは真善美の対極として偽悪醜なのだろうか。
日本語の言葉遊びとしてではなく、一般的に忌避すべきものなのだろうかと考えると、それは違うだろうと思い到る。
理想とすべきもの、絶対的なもの、不変であるもの、価値のあるもの、そういったものではないが、別のあり方なのではないだろうか。
真善美とそうでないものの二元論の枠組みで考えると、くだらないことは薦められるものではないと切り捨ててしまうものになってしまうが、枠組みから離れた別の価値観なのだという考えができそうだ。
そうすると、くだらないこととは、いったい何であるのか。
(この話は続く)

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