健康管理について

 
たまには、日々の思いついたことなど、だらだらと書き留めておこうかと思う。
 
たぶん、この数年顕著になってきたのだけれど、それ以前から少しづつ事態は進行していて、個人の健康というものを、社会の中で管理可能なものとして整備されてきている。
特に目新しいことなんかないぐらいに、自然にそして気づかないうちに、だいぶ管理されるようになった。
以前は会社の健康診断を年に1回受診し、あれこれ言われれば済むだけだったのが、生活改善プログラムに参加するかどうかやら薦められるようになったり、一定年齢以上は人間ドックを準していたのが、健康診断で済ますようになったり、不健康であることを許容せず、健康である場合は低コストで保証する、というコスト概念と健康状態が結びついてきている。
ざっくりと乱暴な言い方をすると、健康な人からはお金を徴収し、不健康な人へ分配する、健康保険の仕組みの中に、健康状態を細かく把握し、不健康になるリスクのある人たちに対して、低コストで健康な状態へ矯正しようという流れができたのだと思う。
最近はこれに加えて、スマートデバイスによって日々の健康状態をログし、一定の健康状態を達成することを維持し続けるよう、意識づけられるような仕組みが入り込んできている。
大げさなことを言うようだが、不健康であることを許容しない状況が、社会制度の面から個人の使うスマホアプリに至るまで、様々なレイヤーで取り組まれている。
いったん話は別のところに移すが、ミシェル・フーコーの「性の歴史」だったと思うけれど、セルフケアの思想について、古代ギリシアから検証した章があったと思う。
健康を志向する考え自体は、特段目新しいものではないが、それが大々的に社会制度として取り込まれていったのは、近代の刑務所の監視機構の整備で発達していったという話が、別の本に繋がっていたと記憶している。
そしてそれは、スマートデバイスによるビッグデータの収集とAIの分析によって、今後は更に細かく管理されることになると予測している。
恐らく健康であることは、社会の構成員として必要な要件となり、不健康であることに不寛容な社会が作られていく。
例えばこんな空想だ。
スマートデバイスで刻々と計測される肉体に、不健康になる可能性が一定の閾値を越えると本人に通知が届き、健康になるように矯正プログラムが指示される。
この仕組みによって、人々の健康は維持されるが、そこからはみ出てしまう不健康な肉体は、社会制度としての矯正プログラムに参加させられる。
一定のコストは既に予定した範囲内だから、学校や仕事は休んで集中的に集められ健康に向けた教育を施される。
不健康になってからの治療にかかるコストと、矯正にかかるコストは絶えず比較され、矯正の見込みがないものは別のプログラムへと移行する。
それは、未来の姥捨て山になるのか、今は想像もつかない高度な肉体改造になるのか。

 
UnsplashAlexander Greyが撮影した写真

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