舌の記憶

随筆の中でも食べ物に関するものは好きだ。
文字だけで味が分かるはずも無いけれど、文字から味を想像しながら読んでいる。
美味しいものを食べることは幸せだと思う。
だから読むことでその幸せをシミュレーションしているのだろう。
想像することは、実際に体験することよりは、劣っているのではないかとも考える。
だが何かを食べることと、食べることを想像することは、全く質の違う出来事だろう。
食べることで満たされるのは胃袋であって、想像することで満たされるのは欲望だろう、という話ではない。
何か美味しいものを食べる、そのことを文字に落としてみる。
冒頭の写真は年初に食べたアップルパイである。
甘酸っぱいリンゴ、サクサクとしたパイ生地、添えられたヴァニラアイスとレモン風味のはちみつ、そういったものではある。
仄かに温かくたぶん焼き上げられてから、時間が経っていなかったのだろう。
煮られたリンゴは本来の甘酸っぱさに加えていくつかのスパイスの風味がした。
などと書き連ねていったところで、それは美味しさは伝わりようがないと思う。
舌の記憶は曖昧で、説明を連ねていきたくなる。
説明するためにおいしさの正体を分析しようと、食べたものを分析したくなる。
しかし美味しいものの美味しさを分析して説明する文章と、良く書かかれた食べ物に関する随筆は全く異なる。
自分の文章力無さを棚にあげて言うならば、出来の良い食べ物に関する随筆とは、食べることの体験を語っているのであって、食べ物そのものを説明することではない。
だから、食べ物に関する随筆を読むことで、食べる体験そのものをシミュレートしているのだと思う。
舌の記憶を呼び覚ますためには、空間や身体や視覚、つまり舌以外の関係の上に美味しさを伝えねばならないのだろう。
しかし自分の食べたいものの名前だけを、ただ書き連ねているだけの、内田百閒の随筆というものも、逆説的に面白い。

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