2024年を振り返る

 
今年も反古の山を作って、1年を振り返ろうと思う。
とは言っても時系列で考えても、あまり意味が無いし、思いつくまま語れるものを言葉にしていこうと思う。
なので、これは文章を書く練習。
夏に新国立美術館に初めて行った。
今まで行ったことが無かったのは、観たいと思う企画があまり無いのと、高いからに他ならない。
最近、映画を観るにも、展覧会を観るにも、料金が高いなと思うことが多い。
文化活動だとかカルチャーだとか偉そうに言う気も無いけれど、先立つものが無いとそういった本物に触れる機会が無いというのは、悲しい状況なのではないかと思う。
そうは言っても、学生の頃は学生料金で展覧会や映画を観ていたのだから、恩恵を享受していないという事ではない。
3月にひょんなことで国立西洋美術館に無料で入れたけれど、本物の西洋絵画はやはり本物であって、画集やテレビで見るのとは違う感覚があるのを、久しぶりに思い出した。
書にしたって同じことで、新国立美術館で併設で展示されていた古典作品はいつまでも観ていたかった。
世間で古典と言われている作品には、洋の東西を問わず、そこには本物が本物である価値があって、それが見える感じられるようになるには本物に触れるしかないんじゃないかと思っている。
そういった本物を見分けること自体をエンターテインメントとして消費するTV番組があったりするけれど、そういったメタレベルの理解では無くて、ローレベルの感覚なんだろうと思っている。
内藤礼の展覧会もまた、面白いものであった。
現代美術は久しく触れていなかったけれど、色々と考える素になった。
一方で、現代美術を楽しむためには考えないといけない、というところが、いま一つのめり込めない要素の一つでもある。
知りもしないで興味が無いふりをするのも違うと思うけれど、面白いとも思ってもいないくせに知っているふりをするのもまた違うし、知っていることで何らかのステータスが上がるように考えるのもまた違う。
要するに近づかない方が良いものとして、片づけてしまうのが一番手っ取り早い。
絵画的なものは、観る楽しみであるならデザイン、考える楽しみであるならアート、と分化しているような気がする。
では書というものはどんな位置づけになるのか、まだ答えは無いけれど考え続けることの一つなのだろう。
何かを作り出すというということが根源的なことの一つであるような気がしていて、そこに至るための方法の一つが書かもしれない。
また今年新たに始めたこととして、日記をつけ始めた。
10月に英語で書き始めてみて、何とか3か月続いたので、10年連用日記を始めてみようかと思っている。
日記から考えたことが他にもあって、来年はもう一つ何かを始めようかと思っている。
こうして散漫に書いた文章を読み返してみると、本物の根源にある創造性の種が気になっているということかもしれない。
だが10年前に考えていたことが、10年経った今、どう変わったかというとそう変わっていない気がするのだけれど、その前の10年、つまり20年前に考えていたことが、今の自分の何に繋がっているのかは考えてみた方が良いかもしれない。
このブログ自体、2011年から書き始めているので、すでに干支は一回りしている。
他にも様々なところに書き散らかしたものもあるし、様々な伏線をそろそろ回収する時期が来たのではないか、なんてことも考えた。

コメント