恒例の今年の反古の山である。
何だか少ないようにも思うが、半紙の書き損じは殆どが1画目や1文字目で反古にしているので、試し書き用に避けてあったり、 今年は毎月の課題の半切の作品を1枚づつ取っておこうと思って避けている。
たまに写真版として会誌に掲載されることもあるが、殆どが書いたっきりになっているような気がして、いったん残してみようかと思った。
残すことに何か意味があるか分からないけれど、気が向いた時に処分すれば良いかと。
書いたのはこの反古の1割増しぐらいだろうか。
では観に行ったのはどれぐらいだったのかと手帳を遡ってみる。
だいたい月に1~2回ぐらいのペースで展覧会や東京国立博物館か台東書道博物館を訪れている。
それもまたちょっと少ないような気がするのは、観っぱなしになっているだからかもしれない。
自分で書くのは主に草書だが、観に行ったうちで記憶に残ったのは、楷書と隷書だったように覚えている。
楷書は欧陽詢の「九成宮醴泉銘」の各拓本のバリエーション、隷書は八分隷より前の「石門頌」「張遷碑」といったところに感銘を受けたようだ。
しかし、観ることと書くことのバランスというか関係が悪いような気がする。
ただ観るだけでも、ただ書くだけでも違っていて、楷書や隷書を見て感銘を受けているのに、草書ばかりを書いていることで、うまく繋がっていない。
かといって、草書を観に行けばいいという話でも、楷書や隷書を書く方向に転換するという話でも無くて、色んな書を観たうえでそこから何かをアウトプットしていく、アウトプットするスタイルが草書であるだけで、その何かを掴み損ねているのか、その何かをアウトプットし損ねているということかもしれない。
それでも、何度か会誌の掲載されたので、少しはできているような気もするけれど、展覧会の作品はもう少し書きようがあったんじゃないかと会場で観て思った。
観ることとと書くことの間にある何かについてもう少し考える必要がある。
いや、考えるのではなくて、考える前に書くことができるようになる、ということではないかと思っている。
それでは皆さん良いお年を。
https://www.instagram.com/wahow_kobayashi/

コメント
コメントを投稿